前田利家の妻、まつは大層困っていた。
「犬千代さまー?」
この名を呼ぶのはもう何度目だろうか。
まつがその耳に心地よい声で呼ぶたびに、森では鳥の声しか返ってこない。
愛する夫のあの情けなさを含んだ声で返事はしない。
周りは木々しか見えない。
「はぁ。また迷いましてござりまする…犬千代さまもご無事であればよろしいのですが…」
困っているはずのまつは案外余裕気に手を頬に沿え首を傾げて見せた。
この夫婦は、すでに迷うのは二度目だった。もっと言うと慣れっこだったのだ。
特に慌てる様子を見せないまつは、ふわんと漂う香りにピクリと反応を見せた。
「あら。何やら良い匂いにてござりまする」
森の中に良い匂いなど、普通は疑うものだがまつは妻、そして家庭内の料理人。
迷うことなくその匂いに引き寄せられ、草むらや木々を気にすることなくザカザカ歩いていく。
目指すは匂いの元。愛する夫のことなど今は頭に無い。
一層緑の濃い草を分け入ると、一瞬にして視界が広がった。
空が近い。山の上、むしろ丘の上に立っていた。そして目下には大きな屋敷。
見下ろす形でそこに居た。
「こんな丘の下に…屋敷、とは…」
森や山を周りに置いた屋敷に素直に疑問を口にする。
しかし追い求めた匂いはあの屋敷から流れてきている。
まつは恐ろしいほど潔く丘を滑り降り、屋敷に近付く。
傾斜からトンと軽やかに降り立ち、あともう少しというところ。
「おーっと、その先は行かせることはできないな」
すぐ後ろから声が聞こえて振り返る。
耳元で聞こえたように思えたはずなのに、見えた人影は三歩も四歩も離れている。
まつは首を傾げる。いつか見掛けたことがある人物の姿。
緑の森のような装束を着込み、その手には二つの大きな手裏剣。
「なに、一人で攻め込んでくるなんて良い度胸じゃない………死ぬか?」
口調は軽いのにその目はギラリと光っている。
しかし、そんなことを気にしてはいないのかまつは遠慮や恐怖など感じさせないような勢いで相手に近付く。
殺す気で居たはずの相手も、殺気さえ見せず、持っているはずの武器を向けようともしないまつに戸惑っているようだ。
振り切れば切れるはずの手裏剣をただ構えるしかできない。
そして後一歩、というところでまつは目を輝かせた。
「まあ!貴方様からも同様の匂いがいたしまする!」
「…………はあ?」
間抜けな声しか出なかったのは仕方の無いことだった。
「こちらも美味しゅうござりまする」
ぐつぐつと鍋が煮えたぎる台所。
まつは箸を片手に歓声を上げた。
「佐助さまはお料理がお得意なのでございますね」
佐助はややげんなりとして「そうでも無いよ」と漏らした。
女官などいるはずの水場に何故か二人きりだ。そして敵のはずなのに。
「それはご謙遜でしょう、私この匂いに誘われたのですもの」
うきうきと他の鍋や作ったばかりの御浸しなどに箸を伸ばす。
こちらもよろしゅうございますか、と問われ佐助は好きにしてよと漏らした。
「前田の旦那の奥さんでしょ?料理は上手いって有名じゃん」
壁に凭れて腕を組んだまま佐助は彼女の夫を思いだす。
確かいつも「飯〜腹減った〜」と声を叫んでいた気がする。
そしてまつの料理の腕もまた彼や彼の軍から聞いた話だった。
「料理にはもちろん腕に覚えがござりまする、しかしこちらもとても良い味です」
振り替えりにこりと笑った。
お世辞や嫉妬を含まない声で、佐助は目を瞬いた。そしてその裏表の無い台詞に呆れを通り越して笑む。
「こちらを食べられる方への愛情が詰っておりまする」
「愛情、って…」
うっとりとそう賛美するまつに佐助は頭を垂れた。
何故ならこの料理は。
その時、半開きだった屋敷内へと続く戸が勢いよく開いた。
「やはりそうか!佐助ぇえ!某へのおぉぉ……!!!」
「盗み聞きなんて子供っぽいことしないの、真田の旦那!怒るよ?」
開くと同時に聞こえた大声に佐助は即座に嗜めた。
忍でないまつでも戸を挟んだ向こうで真田や他の人々が話を聞いていたのはわかっていた。
別に聞こえて悪い話などしていないから放っておいたが。
同じく盗み聞きしていた屋敷の者たちは佐助の言葉に、そしてまつのチラリと見せた注意を思わせる瞳にびくりと肩を揺らしすごすごと退散した。
しかし幸村はそうは行かない。
「佐助!まつ殿が言ったのだ!某への、あ、あ、愛が!料理をうまくしているのだろう!?」
「別にお館様だって食べるでしょうが」
料理がうまくなったのだって佐助が好きでそうなったわけではなく、己の飯が食いたいと我侭をごねた二人の結果である。
今では恐ろしいことに慣れてしまって、こうして食事の準備をしてしまっているのだが。
はぁと大きく溜息を吐いた佐助を見て、まつはクスクスと笑う。
「お二人とも、とても深い絆で結ばれておられるようで」
「もちろんである!!」
「旦那は黙ってて!」
ぴしゃりと言われ、幸村はぐぅと黙り込んだ。
ギッとまたひとつ睨まれ、ちゃっかり正座までさせられている。
「それはそうと佐助さま。こちらの煮込みなのですが、お味噌の他に何を加えていらっしゃるのですか?」
まつは椀で掬って汁を味見してから、はてと考え込んだ。
佐助は幸村に向けていた意識をまつに移す。
「ああ、これはまずは味噌を火で炙ってから生姜と…」
「まあ!それでコクがこんなにも!それでしたらこちらも同様に炙り葱など加えてみましては…」
「それはうまそうだね!やってみようかな」
「お醤油なども合いそうでござりまする」
「でもそれだと味が濃くなりすぎて…」
二人は鍋や皿に向かってあれこれ話し出す。
その様子はさながら妻。まつの場合間違ってはいないが、この忍の場合どうなのだろうか。性別はもちろん男である。
どんどん会話の進む二人に途中割り込むこともできず、幸村は正座を崩さず二人を呆然と見やる。
基本的な味覚しかわからない幸村にとっては、料理がどう作られどううまくなるのかなんて想像が付かない。
話にはついていけてはいないが、佐助の主として長年一緒にいたが今の彼を見て、ひとつわかることがある。
「佐助、何だかとても生き生きしておる…」
普段の佐助より何倍か楽しそうに見えたのだった。
そして馴染んで見えたのは気のせいでは無い。
開いた窓から情けない声と大きな腹の音が聞こえたのも恐らく幸村の気のせいでは無かった。
幸村はその音につられたように鳴り出す己の腹を押さえ、佐助の後ろ姿を見つめた。
鋭いはずの忍も、夫に敏感なはずのまつも夢中でそれに気付くことは無い。
「まつ〜」「佐助〜」「「腹減った〜」」
二人で楽しむ
2006.8.8
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