冷戦
穏やかなはずの日常は、今日は何故か朝からピリピリしていた。
雨が降りそうな天気だからとか、生ぬるい空気のせいだとか、色々あるだろうけれど。
それよりも違っていたのは、いつも仲睦まじい二人の様子が違っていたこと。
「何故佐助はそうなのだ!」
「何で旦那ってばこうなんだよ!」
言い合いをしている、という図はあまりに珍しく周りの者を凍りつかせた。
世話焼きの忍、猿飛佐助は飄々としていて怒らないはずの人だったし。
真田幸村は温情の厚い人で、情けない姿は見せても諌めることはしても怒ることはあまりしなかった。
無理難題でも文句を言いながら幸村を世話する佐助が大声を上げる、それも主に向かって、真剣な怒りだ。
幸村も部下にあれこれ文句を言われながらもそれに対して本気で怒ったことは無かった、それが戦の滾りを感じるほどだ。
お互いが、眉間に皴を寄せ目を吊り上げている。
ビリビリとした空気、顔が付きそうなくらい近いのに恐ろしい雰囲気しか持っていない。
「下がれ」
冷たい声、上司としての台詞に、佐助はまた険しい顔を見せた。
「そうさせてもらいます、真田様」
いつもの呼び名ではない、その呼び方に、幸村もまた同じく険しい顔をした。
それを一瞥すると、佐助は背を向けて部屋の襖に手を掛ける。
その後ろ姿に幸村は苦い顔で声を投げかけた。
「佐助、寂しいと思うなよ」
「面倒無くて助かるねぇ」
「言ったな、某が佐助の助けを本当に必要としておると?」
「どっちでもいいよ、突っ込み過ぎて後ろやられないようにね」
武士としての背中を護っていたのは、間違うことなく佐助。
しかし、佐助の台詞には「忍がいなくては、後ろを獲られて殺される」ということを語っていた。
確かに真正面から対峙するような幸村のやり方では、佐助がいなくては危ない。
幸村は武士だ、忍無しでは戦ができないと言われれば侮辱にしか思えない。
カーッと上がった血は、幸村を抑えるようなことはしなかった。
手元にあった肘置きを佐助に向かって投げつける。
「出てけ!戻ってくるな!」
投げられたそれは当たることは無かったが、佐助の顔を更に歪ませるのには十分の威力だった。
「あぁ、そうするさ!今までお世話になりました!」
スパンと閉められた襖。
廊下に足音が聞こえないのは忍であるから。
同じく部屋にいた部下は、オロオロと閉められた襖と幸村を見比べる。
気が立って息の荒んでいる幸村は、大きく怒りの息を吐くとその場に寝転がった。
次の日になっても、その次の週になっても…一ヶ月経っても佐助は戻らなかった。
解雇されたのだから当たり前だ、と幸村に仕えていた誰もが思っていた。
しかし、そう思っていなかったのは当人である真田幸村。
佐助が戻らないという事実に愕然としていた。
喧嘩なんてしたことも無いし、するなんて思ってもみなかったことだ。
それに、佐助がもう戻っては来ないということは考えてもみなかった。
始めこそは姿が見えないのは願ったり叶ったりだと思っていたが、戻らないなんて。
屋敷中を探し回っても見当たらない。
他の忍に聞いても何も答えない。
そこで探す手が自分には無いことに気付いた。
雇っている立場なのだから、出て行けと命を下せばその通りにするということを忘れていた。
アレは家族では無いし、何でも聞いてくれるただの道具でも無かったのだ。
忍は道具、と言いながら感情があると言ったときアレが嬉しそうにしていたのを失念していた気がする。
「佐助、此処に」
どことも言えない天井に呼びかけるが、応える声は無かった。
一人の部屋がシンと静まり返っている。
「佐助……」
いつも隣にいて、呼びかけに応えないなんてことがあるなんて思ってもみなかった。
幸村は呆然とその場に座り込む。
「………すまなかった」
謝りたいのに、謝る相手がいない。
どこに行ったのかもわからない。
簡単なことなのにそれができない自分が口惜しくて、涙が出そうだった。
「謝るのが遅いですよ、旦那」
間近で聞こえた声。
一瞬耳を疑い、顔をゆっくりと上げる…すると見慣れたはずなのに懐かしい緑の忍がそこにいた。
赤茶の髪の毛をふわりと揺らして、笑う。
その姿に、カラカラの目から涙が溢れる。それは乾いた何かを潤すように流れ続けて止まらない。
「なんだ、情けないなぁ」
「うむ、某は佐助がいないと情けない男なのだ」
ボタボタと畳を濡らす涙を、佐助は近寄りその目元を苦笑しながら拭ってやる。
「俺も、ごめん旦那」
結局佐助も隠れただけで傍を離れることができなかった。
酷い暴言を吐いたことを素直に詫びた。
久しぶりのその声を逃さないように、その身体をもう離さないと言わんばかりに抱きしめる。
佐助は一瞬戸惑ったようにして見せたが、やがてその背に腕を廻した。
「もう、何で旦那はこうなの?」
「佐助は、何故こうなのだ」
そうじゃれ合うように言い合って、そして笑いあう。
額を寄せて、目を合わせて、ただ笑う。
穏やかな日常は、今日も穏やかで。
外は太陽輝き晴れやかに、空気は清々しい。
冷たい冬を越えたような空気は柔らかく溶けた。
−終−
水面下の下の小さな話
2005.12.10
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