ヘロイン




賑やかな酒場は一瞬ぎょっとなった。
「ハッ、ハハ!」
カウンターで無口、とは行かないが酒を戯れる輪に混じらず自分の世界を楽しんでいたダンテが急に笑い出したからだ。
愉快で堪らなかった。
酒を浴びるほど飲んだ感覚に似ている。
体に力が入らず足下がふらつき、頭がふわふわと浮く。
しかし、人の何倍か酒に強い体を持つ身でそこまで酒代に使える余裕も無く、またそれ記憶した覚えも無かった。
ただの一杯、いつものジントニックを口に入れただけ。
それなのに今の自分の状態はどうだ?
おかしくて堪らない。
何が、というわけでは無くただそこにいること、今の自分がただおかしくて笑いが止まらなかった。
悪魔との血の旋律を決めている時のように、体を流れる血は熱く気持ちが良い。
「よぉ兄ちゃん、大丈夫か?」
重い頭を振り声の方へと顔を向ける。
ばさりと銀が目の端に映った。
「……あんた、だれだったかな」
汚れたコートを羽織り、浮かべている笑みもどこか汚げなイメージを持つ男。
黄ばんだ歯を堂々と見せて笑う姿には見覚えが無い。
男が話しかけたのを機会に、集めていた視線がバラけていった。
「ひでえよぉ、お前さんに今酒をおごっばかりだろぅ」
「そうだっけ?ま・いいけど」
舌が縺れるようにうまく言葉が出なかった。
見知った顔で無かったし、そうで無くても別によかった。
ダンテはただへらりと笑ってグラスに残る酒を喉に追いやった。
薄汚い酒場が今日に限って華やかできらびやかだ。
「ふ、はは」
ダンテはただ楽しそうに笑う。
それはいつものクールな笑みでも皮肉を含んだそれでもなく、無邪気だ。
美麗と見えるその顔でくしゃりと笑えばまだまだ幼さが見えた。
いつもの彼もストロベリーサンデーを口にしたりと随分子供らしいが、今は違う。
まだまだ純情な、ガタイの良いダンテに相応しいとは思えない色を知った少女のような艶の入り交じったものとまで思えるほどだった。
「あ、」
短く言葉にもならない一文字を口にした。
危うい手元がうまく操れないのかふらふらと揺れて、グラスから中身を追い出していた。
手から腕に掛けてが濡れてしまっている。
ダンテはじぃとそれを見つめると手先に唇を寄せた。
指先を舐め、口に含み、伝う滴のまま手のひらをペチャリと舐める。
手首から順にゆっくりと舐め上げ、また五つの指先を丹念に口に含んで舐めた。
「こりゃあ、たまんねぇ」
男は下品に笑う。
ダンテはただ、弱くなった思考で貧乏性が出ただけのように思えるが、誘っているようにも思われ見ている者を捕らえて放さなかった。
「兄ちゃん、外に出ようぜぇ。楽しいことしようじゃないか」
ぐいと強い力で男はダンテの腕を引く。
ギラギラとした欲の滲む厭らしい目を向けながら舌なめずりをしてみせる。
いつもの彼なら、どういう今自分がどういう状況にいるか理解もできただろう。
しかし、ぶっ飛んでいる頭で何を考えてもまとまることは無い。
男に腕を取られ、無理に引っ張られながら後を歩く。
外へと続くドアはすぐそこだ。
連れて行ってしまえばどうなるかはわからない。
ここはスラム。夜には誰も通らない道もあるし、怪しい業の店くらいいくらでもあるのだ。
ダンテの様子を気にしていた一部の人間は、あっと小さな声を出したが外へと向かう二人のほうが早く止める言葉も出ず、目で追うしかなかった。


「どこへ連れて行く気だ」


青のコートが行き先を封じる。
低い声が騒ぐ店中を一瞬にして凍らせた。
外へ外へと急いでいた男は言葉を失くしてしまった。
腕を掴んでいるはずの青年と同じ顔の青年が、今ふたつの青でこちらを睨んでいる。
顔は似ているが雰囲気がまるで違う。
目には氷を宿し眉を寄せ、銀の美しい髪は後ろに撫で付けて随分と大人びている容姿に、近寄りがたい雰囲気さえも出している。
男はつい手の先に目をやった。
そこには変わらずとろりとした瞳の青年がそこにいて、すっくと立っている似た彼を呆然と見ていた。
「…ばーじる」
「何をしている、ダンテ」
舌足らずに名を呼ぶ彼に、バージルは冷たい目を更に厳しくして見つめる。
しかし、そこには男に向けたようなただ相手を凍らせる瞳ではなく、呆れと情のようなものが含まれていた。
「なんか、すっげぇきもちいいんだって」
ダンテはへらへらと笑う。
いつもなら、拗ねてみせたり、逆に怒り始めたりするところだというのに、気にも止めていない。
おかしいと思ったのだろう。バージルはギッと未だ腕を取る男に視線を向ける。
「……この馬鹿がこんな時間にここまで潰れるとはどういうことだ」
時間はまだ次の日に入った程度のところだ。
バーに来た時間を考えると大して経ってはいない。
「何を、した」
ふわり空気が冷える。
傍観者を気取っていた気の弱い奴は、ひぇと情けない声を出して椅子から転げ落ちた。
ガタンとなる音も、ざわざわと騒ぐ声さえにもバージルは耳を傾けない。
ただ目の先にいる一人にその目を、耳をも注いでいる。
男は汚い顔を更に恐怖で醜く引きつらせ、ガタガタと震えている。
「な、なにも、何もしてな」
ダンテの焦点の合わない瞳、ぼうっとしている意識。
頬を染め、口をいやらしく開き、その端からは透明の糸が一筋垂れた。
「…………薬か」
びくりと男の肩が跳ねる。
こんな汚い街だ、薬なんて有り溢れている。
人の何倍も回復力も、体勢力もあるダンテがこんな状態になるという薬だ。
どれほど強いものなのか。
バージルは怒りを表した顔のまま、ダンテの唇を拭ってやった。
「ダンテ、帰るぞ」
「え、ああ、ええ?」
視線を少し落とし、目を合わせて言い聞かせたが、ダンテはわかっているのかいないのか間抜けな声を出した。
力が抜け切ってだらりと垂れた手を取って、ドアへと足を向けた。
そこでグンと力がそれを引き止める。
もう片方の腕は未だ男の手の中にあって、彼をきつくこの場に縛り付けている。
男は恐怖に駆られ、動けないでいるがその腕だけは放そうとしない。
いや、掴んでいることすら忘れてただ縋っているだけなのかもしれないが。


「汚い手を放せ、虫けら」


持ち歩いている片刃の愛刀が本来の姿を一瞬だけ見せ風を切る。
普通の者には、何が起きたのかさえわからないでいただろう。
「ぎゃあああ」
次の瞬間には男の手はダンテを掴んだままそこに片腕としての存在になっていた。
血飛沫が上がり、男は絶叫して、今先程まであったその腕の空間を必死で押さえる。
酒に浸っていた男たちも、ただ眺めていた男たちも、少しの静寂の後、声を上げる。
夜のバーは驚愕と恐怖とでパニックに陥っていた。
そんなものに目もくれず、腕だけになっても強く握り締め放さない男の残骸をバージルは放り捨てその場を後にする。
ダンテは引力のままにバージルの後を付いた。
二人、静まり返った裏路地を歩き、家へと目指す。
「何をやっているんだ、お前は」
「なに、なにって?」
楽しそうにダンテは笑う。
忍ぶようにいやらしく笑う青年に、バージルはその笑いごと唇で消し去ってしまう。
歯列をなぞり、舌を捉えて吸って絡ませる。
角度を変え、執拗に奪いつくす。
ダンテは寄りかかるようにバージルへ寄り添い、切なげに眉を寄せた。
十分に堪能してから、バージルはゆっくり唇を離す。
透明な糸が二人を繋いで消えた。


「お前が乱れるのは俺の前だけだ、覚えておけ」


男らしく獣のように強い瞳で宣言するバージルに、ダンテは酔った瞳でうっとりと頷いた。







   −終−







うつくしく乱れて見せろ




2005.11.07